12月8日、地上波で『落下の王国』という作品が流れました。円盤の配給会社が倒産したとかで円盤中古価格がやばいことになっている作品です。
Twitterのダイマ祭りで初めて知ったのですが、いや映像美!(粗品さん風) って感じでしたので、その日ぎりぎり休みだったことと自宅の録画機が死んでいることもあり、リアタイしてきました。んもー、好きになっちゃいましたね……。
同じく今年初めて見て惚れた『AKIRA』のような「キメなくちゃ……!」という感じではないのですが、『落下の王国』は心の柔い部分に深く刺さって抜けなくなる感じ。全体的に「優しいのに残酷」といったお話でした。硝子細工みたいな。
以下『落下の王国』のネタバレあり。
ロイは多分、映画界に戻っていないと思いました。というより自殺を試みることを止めなくて、そのうち成功してしまうんじゃないかな。
映画の上映会シーンでロイが戸惑ったような様子のシーンがあるのですが、そこがロイがいるはずのシーンでいないから戸惑ったのか、ロイがいないはずだったのにいたから戸惑ったのか、それがわかりませんでした。人間を見分けるのが苦手なんじゃ……。
後者なら何も問題はありません、ロイは映画界に戻ります。例え生涯映画作品一作しか出れなくても絶望することなく、アレクサンドリアとの思い出を糧に挑戦し続けると思います。
問題なのは前者。ロイはアレクサンドリアとの思い出を、特に最後に見せた笑顔を、胸に、成功するその日まで自殺を続けていくのだと思います。
でもアレクサンドリアにとってはロイは生き続ける。ここが少女の瞳から見た世界の優しさと残酷さをうまく表しているな、と思いました。
落下=ロイなんですよ。アレクサンドリアにとっては。落下がロイを表す記号なんです、ロイと自分を表す記号なんです。
そもそも二人の出会いからして落下でした。二人して入院理由は落下だし、アレクサンドリアが手紙を落としたから始まった交流だし、アレクサンドリアはロイが巡らせた策に落ちたし。
基本的に作中内でも「落ちる」という記号は比較的マイナスなイメージで使われています。特に終盤、アレクサンドリアがロイのためにモルヒネを取ろうとして落ちた後のシーンなんて言わずもがなですね。
この一件でロイは自分がアレクサンドリアに与えた影響というものを改めて感じて、それを酒で逃げたくなる程度には最初は道具だった筈のアレクサンドリアに情を抱いていて。こんなんオタクが好きなやつやん! ってなりました。オタク特有の主語のでかさを許してください。
ロイが語る物語の登場人物たちもそうです。ダーウィン(+おさるさん)は落とされて死ぬし、ルイジは崩れ落ちて足掻きながら死ぬし、霊者は歯を落として(落とされて)死ぬし、オッタ・ベンガはアレクサンドリアを落とされるものから守って死ぬし、インド人(これが名前なんかいってつっこみました)は綱を切り落として死ぬ。
自暴自棄のように俺の物語だ(=俺はどうせこんな人間なんだ)ってどんどん仲間たちを殺していくロイが、山賊でさえも水に落として殺そうとするのを、アレクサンドリアが泣き叫んで止めます。「二人の物語よ!」と、ロイがアレクサンドリアに影響を与えていたように、ロイもまたアレクサンドリアに影響を与えられていたということに気が付かされるわけです。
ここから作中物語の「落ちる」意味合いが少し変わってきます。山賊がペンダントを自発的に「落とす」のです。惚れた女との決別をもって、娘と歩む未来を選択して。マイナスイメージではなくプラスイメージの記号として使われるわけです。そんなの、好きに決まっているんだよな……。
ところがあくまでそれは作中物語だけのお話です。現実はロイとアレクサンドリアは離れ離れになるし、実際にロイが前を向けた可能性は低いです。それでもアレクサンドリアという少女の中で、ロイ・ウォーカーという臆病な青年は生き続けるんだろうなって。ロイ・ウォーカーは実際に歩き続けたのか、続けられなかったのか(今気が付いたけど皮肉な苗字だな)。本当のところは本人しか知らないし、アレクサンドリアは真実を追求することはなく歩き続けたと思い続けるのでしょう。
やるせないせつなさというか、そんな感じのものが胸の柔い部分に刺さって抜けないお話でした。映像美で見始めたのに普通にお話が好きになっちゃった。
それではこんな好きしか言っていない感想を読んでくださり、「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
